2013年6月10日 (月)

発話につながる豊かな言語入力 No.1

使用教材:NHKテキスト、「攻略リスニング」2013年3月号 "Overpopulation"

2012年5月17日 (木)

第6回 モード転換練習は立ち位置移動練習。

生徒:携帯電話で外部と連絡をとっていたという受験生がいたという事件がありましたね。

近江:そういう不正行為でもある程度点がとれるような入試問題を作る方も作る方だということもいえる。そういう意味でこのBLOGであえて、京都大学の昨年の入試問題の英文を使ってきた。ここで私が、すべての英語教師に声を大にしていってきたことを改めていうと、それは…ハイ、みんな…

全員(コーラスで)受験もコミュニケーション英語もない!!入試の長文のように、しゃべればいい!!少なくともそういう方向に英語教育・学習を転換していかなければならない!!

近江:その方法をこのブログでは紹介してきたが、おさらいすると、ー

 第3,4,5回で見てきたように:、素材をのポイント」であるWHO,TO WHOM, WHEN, WHERE, WHY, WHAT, HOWの観点で理解し、自分が理解したように語り手の成り代わって音読をする。 

生徒CDなどのモデルをただ真似するのでないですね。それに、だいたいそのようなものはない。ないから自分で主体的に語り手の気持ちと取り込んで、彼に成り代わって読むオーラルインタープリテーションがあるのですよね。

近江:それがとてもいい解釈の訓練になっている。だから受験対策にもなっているのだよ。

生徒:しかも単なる内容理解でない。それを超えているわけですよね。

近江:そうだ。そして理解したところでの音読を続けていくと原文のレトリックは体に刷り込まれていく。

生徒:暗記…とは違うのですね。

近江:限りなく習熟するということだ。理解しての音読(Oral Interpretation)の結果だから、単なる丸暗記と違って応用がきく。だからOIだけでも非常に有意義な入力を行ったことになる。が、さらに色々な場面で使えるようになるためのダメ押し的な訓練が、ここでのモード転換練習・立ち位置移動訓練だ。

生徒:モード転換訓練をすることで入力をかためるわけですね

近江:素材のレトリックが本番に応用して使えるような柔軟入力にフォーマット転換するわけですね。

生徒:かくして入力はファイナライズされるわけですね。

近江: そうだ。ではやってみよう。ただ、これはあてがいぶちでなく、各自が自分で場面を想定してしみることが大切だからね。

モード転換練習で入力を固める―その1-

 

WHOの転換だ。内容はほとんど原文のままの再生でいい。手始めに今の自分の立場に引き寄せて語ってみる。歴史の教師になったつもりで演技してみてもいい。その時の聞き手、時、場所を設定して話してみるといい。学習塾などどうか。具体的な方が練習にリアリティを持たせることで乗れる。

モード転換練習で入力を固める―その2-

 

原文の語りの展開に注意を払う。”History” には2つの意味があるという流れである。それを異なる「内容」に応用する。もちろんそれにつれて語り手、聞き手、時、場所などを変化させることが自然だと思えばそうすればいい。

そこでたとえば私の場合だったらhistoryと同じことが、Drama/Oral Interpretationにも言えそうだと閃いたりする。

パフォーマンスとしてのドラマ/オーラルインタープリテーションと、もう一つの英語教育の手段の2つである。特に役者が自分の体を使ってテクストの文章の7つのポイントを理解しようとする過程で深い理解に到達していく、そしてそうして到達していった深い理解の上に立って声だしを続けていくことで単なる多聴、多読、あるいは機械的な暗記も及ばない身体と心のレベルの深い入力・内在化が行われ、それが実際のアウトプットとなって出てくるーーというようなことにいえそうだなどの直感が働く。そしてインタビューを受けながらそれに対して答えているという場面をシミュレーションしてみるなどがそれである。

 聞き手を想定してもいいし、誰かをたててもいい。

――○○先生、ドラマとかオーラルインタープリテーションって、特殊なパフォーマンスとして捉えられているところがありますが、先生はそういう誤解が日本人がいつまでたっても英会話のレベルを越えられない根本原因だとおっしゃっていますね。その辺を説明してください。

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Well, it’s kind of a long story, but I’ll try…See, the word 'drama’ has two senses: drama as an end in itself and drama as a means to an end. In the first sense, drama is imagined by most people as Romeo with period costume ‘sighing like furnace, with a woeful ballad made to his Julet’s eyebrow’ upon the Broadway theatre which we could visit if only we had time and money. Drama as Mr. Omi sometimes theoretically sometimes emotionally, but most of the time hysterically() has tried to impress it upon learners of English are based on what the training required of those actors and actresses go through prior to their performance. English proficiency if it strives for the development of all round abilities, becomes ours only through the effective use of body, soul, and mind , we can get it in no other way.

モード転換練習で入力を固める―その2-

今度は目的を動かしてみる。

コミュニケーションには色々な目的がある。意味さえ通じればいいなどとよくいうが、このセリフには、英語が苦手な日本人の「怨念の噴出(ルサンチマンの噴出)」を感じて私は好まない。

たしかに意味さえ通ずればいいコミュニケ―ションもある。しかし、そればかりではない。説得もあれば、降りかかる火の粉を払うコミュニケーションだってある。これはアポロギアという。芸人は意味さえ通ずればいい?そんなことをいっていたら即刻首だ。 

いや、日常性のコミュニケーションだって同じだ!たとえば――、

日常生活における喜怒哀楽の交換」だって立派なコミュケーショの目的である。

以下の例は、スピーチ矯正用に用意してつもりの学校の鏡がマジックミラーだったため、顔がどうにかした拍子に変形する。そこで急遽大笑いになった――という想定。

「内容」(WHAT)も変えた例と取れないこともないが、これはその内容に対して語り手が、どういう目的を被せたのか、伊藤的だったのかどうかあたりが考え方の分かれ目になる。

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Ha! Ha! Ha! Why, you’re laughing too, Lisa? Isn’t that funny? That’s you there all right. That’s you reflected in that magic mirror; it distorts your figure whose image is even enhanced by this flickering flame of the candle, but that IS the way the

magic mirror has perceived you, not only that the mirror is capable of transmitting her message back to you, “That’s the way I look at you, dear.” Ha! Ha! Ha!

See, the concept of “you” has two senses. What you are and what other people think you are. In the first sense you as you really are will be perceived only by an unbiased God. In other words, strictly speaking, even what you think you are is nothing but a figment of imagination on your part.

2011年6月13日 (月)

第5回 2011年度の京都大学入試問題の英文を使って

日本人が、真に内容のあることを、息の長い表現で、しかも文字にしてもおかしくない英語で国際舞台においてコミュニケ―トできるレベルにどこまで近づいていけるか―これは永遠の課題でしょう。しかし、そのために言語面で真っ先にしなければならないことーそれは受験英語とコミュニケーション英語(=それも英会話)の2種類があるかのような錯覚から目覚めることです。
さてブログでは、物語、小説の抜粋を例にとってその料理法について述べてきました。今回は、皆さんが莫大な時間と労力を費やしている、「長文」の類です。
ああいうものとて、あのようにしゃべって構わないということです。それどころか外国人相手に英語で議論したり、自説を滔々と展開できるようになりたいのだったら、トイレはどこですか、あそこですという紋切型英会話ごっこではどうにもならないということです。
 
(
以下、高校生を使っての授業形態で、授業を展開します)


近江:
さあ、全文をじっくり七つのポイントを意識しながら黙読して…。
The word ‘history’ has two senses: what happened in the past and what we say in the present about what happened in the past . In the first sense history as past events is imagined as a country stretched out ‘behind’ us which we could visit if only we had a time-travel machine. History as the surprises, interpretations and narratives constructed today is based on what those events left for us—in the form of documents, libraries, ruins unearthed by the archeologist, artefacts known or judged to be old. History, in the sense of past time, is accessible only through history in the sense of today’s incomplete jigsaw puzzle; we can get it in no other way.
Among the indispensable resources of the historian are contemporary accounts of past events written by witnesses. Of course these accounts have to be approached with skepticism, the historian must remember the human inclination to dramatize, enlarge a share or minimize responsibility, write with bias, distort the fact whether deliberately or unconsciously, ‘ spin’ the events or tell outright lies. Even so, first-hand reports are valuable and important. Without diaries and reports, memoirs, newspapers and other contemporary records, historians would have a very hard if not possible time. This was what Thomas Carlyle had in mind when he denfined history as ‘a kind of distilled newspaper, ‘ though of course he thereby ignores the task of checking and interpretation that the historian uses to turn those records into an organized whole.
Moreover a great deal of the raw material used by historians consists of other less interesting factual records, such as lists of names, account books, legal documents, and the like; a far cry from, say, diary entries and personal letters, reportage and memoir.
t is these latter accounts, though, that give the freshest and vivid impression of the past, however much spin and bias they contain. The documentary raw material of history has the immediacy of presence, the directness that characterizes communication from someone who was there and felt and saw the things reported.  Any policeman will tell you that four witnesses at the scene of an accident will give four different stories of what happened: so we must accept that every contemporary account is one person’s account, filtered through subjectivity and the often unreliable channel of memory. Nevertheless is impossible not to be gripped, absorbed and often
moved by letters, diaries and court records. It is q quite different experience from reading novelist versions of the events, and even historical accounts of them. The consciousness that the writer was there makes a difference, as you read, you recall the cynical view of Santayana that 'history is a pack of lies about events that never happened, you might not be able to resist a smile. He meant today’s historians writing about the past; but the same applies to the creators of their resources. Some letters and diaries might indeed be a pack of lies, and their authors might not really have been where they claimed to have been—but it is reasonable to suppose that most are the author’s’ versions of the truth. And the fact that they were written close to the described events makes them compelling.

第一段落~

近江:…わかったかな。では理解したように音読しはじめてみて。
生徒The word ‘history’ has two senses: what happened in the past and what we say in the present about what happened in the past …

近江:
ちょっと待った!君の言い方だと ‘history’の〝two senses“が僕には伝わってこないのだがなぁ!ひとつは…?
生徒 what happened in the past…。
近江 間違いなく現実として存在していた過去としてのhistory…だね。それともうひとつは?

生徒what we say in the PRESENT

近江:about what?

生徒:(about what happened in the past…と力をいれずにいう。)

近江:それでいいんだよ!力むことはなかったんだよ。最初の方の定義の部分だから。And what we SAY で少し強め、in the PRESENTでさらに強める。抑揚(高低模様)でいえば基本的に2の高さで入り、PRESENT3の高さにいくところ。about 以下は1で流す。

生徒なるほど。

近江:はい、それでは一緒にいってみよう。The word ‘history’ has two senses: what happened in the past and what we say in the present about what happened in the past

見学者:あの、2-3-1のイントネーションというのはどんな文にあらわれるのですか、
近江そう考えてしまう人が多いのです。この抑揚に限らず、音声の形というのは特定の語形につくものではありません。スピーチ音声は話者の心の波動であって、それがある特定の文型に現れることが多いというものの、基本的にはセンテンスを乗り越えてもっと大きな段落に大きな波動として浮かび上がることが多いのです。2-3-1の心の波動とは、あることを強調しようと助走していって強めて、あと波が引くように引いていくという最も一般的な自然かつ典型的な波動ですが、それはどういうところに現れるかは一概にはいえません。
いずれにせよ、一握りのルール化けしてマスターしてしまえばそれでよしという了見を持たせないことです。今は今で、今のところでしっかり修正した解釈で読ませていけばいいと指導してください。(生徒に、さらに先に行かせる)

生徒…In the first sense history as past events is imagined as a country stretched out ‘behind’ us(望ましくない息継ぎ)which we could visit(望ましくない息継ぎif only we had a time-travel machine. History as the surprises, interpretations and narratives constructed today is based on what those events left for us—in the form of documents, libraries, ruins unearthed by the archeologist, artefacts known or judged to be old. History, in the sense of past time, is accessible only through history in the sense of today’s incomplete jigsaw puzzle; we can get it in no other way.

近江:第1義のhistoryを即物的に捉えるといより、もう少し情感として捉えた方がいいと僕は思う。君の細かな息継ぎはその感じを伝えていないよ。手つかずの生の現実、だれもが届きえない謎を秘めた素材としてのhistory—そういう悠久の彼方を掴み取る音調というものを考えたい。 肺に息を十分ためた軽い朗詠調か、たゆとうがごとく(と言って手本を聞かせる) 息継ぎなどしないで、楽に…which we could visit if only we had a time-travel machine.と流したいところだね。
近江 英語を一定レベル以上に極めようとしている人たちは、基本的な呼吸法と肺活量を確保していきたいですね。意識していくだけでも違ってくる。僕の場合は、In the first senseの後で、少し補給する。が残りで5000CCある。全部使い切れというのではない。
見学者:肺活量が十分だとすると、この場合はどういう表現が可能ですか?

近江:余裕を持ったフレージングができます。仮に切るとしても音波をゼロにするのでなく種火を残す感じで音量と共鳴を保ちながら語ることができます。

高低、強弱、遅速、間(ま)、すべてのコントロールは腹筋なのです。
(生徒に)ところでさっきの2-3-1はでてきているんだよ。

生徒…ああ、何かそう感じました。

近江In the first senseのあと。2で history as past events is imagined as a country stretched out そのまま3で‘BEHINDを強めると同時に声をあげるその後、 uswhich we could visit if only we had a time-travel machineは1に下げて、同時にさらっと流す。演劇用語でいう”throw away” だ。

 こんな感じになるかな。(といって正しい形を教える)

生徒:きれいですね。ゴッツン、ゴッツンといってしまってはいけないわけですね。

見学者:学校の教師読みですね。

近江範読よみだね。範読になっていないのですがね…。句読点は文法的な区切りを表示するが、別に息継ぎの場所をしめあすものではないのは演劇界の常識です。文字を読むのではなく、話者の心を読むのです。

そこで冒頭のhistoryの2つの意味について述べたトピックセンテンスを受けてのこのサポートの部分だが、2つのhistoryの単なる「詳細」か、それとも何かというところが意識されていない読みだったな。

生徒:詳細といよりむしろ両者の「関係」について語っています。
近江:そうだ、よくわかった!「関係」なのだ。まず最初の意義が、背後に茫々と広がる過去の世界としてのhistory。それに対して今日の資料や記録などから捉えることができるhistoryは、所詮はそれらの基盤の上に乗っかっている、一方過去の実態としてのhistoryも直接たどり着こうとしても、今日残っているところのものの謎解きからしかたどり着くことができない。つまり双方とも、もう一方がなければ成立しえないという関係にある…というが点が強調されている。そう解釈したら、それはどの語句に思いが集約させたいかな?

生徒:だからーーis based on what those events left for us…というところでしょうか。

近江:だろうね!

第2段落~

 Among the indispensable…と生徒が読みかけた。ただ惰性で読んでいる感じである。)

近江たわむれに声をだすまじ…(生徒が一瞬かたまる。それを見ておもむろにいう) ヴィトゲンシュタインというドイツの哲学者風に言えば、「そのことをいうときに君は何を思っていたか…」が大切だ。適切なものを思っていってこそその言語形式は君の血となり肉となっていくのだよ。そうでなければ単なる口パク!

字を読むのではない、意味を読む、いや、より正確には話者の意図を読むのだ。見知らぬ土地に入っていくときに、あらかじめ地形をつかんでいないと運転に力が入らないだろう。

この話者は第1段落で、資料などに残されたものの中で、今度はどこを強調しようとしているだろうか?また、それを表す決定的なある言葉があるが。

生徒:(documents written by witnesses…です。

近江:そうだ、バチンとwitnessesをきめてもらいたいところだ!(生徒はトライする)

僕だったら間を置いて奥座敷に目をやり瞬間止めるね (笑い)

生徒: 近江先生がその言葉を発したと奥座敷を睨みたいという語はどれで、またなぜそうなのか説明しなさい」なんて問題が入試にでたらおもしろいですね (笑い)

近江:「この文章の話者はどの言葉を強調したいと考えられますか、またその理由をどう考えますか」という問題ならば南山短期大学の英語科ではそういう入試問題に出していたよ。東大や京大あたりが出してもらいたいね。こういった傾向の問題をだされていけば、携帯電話などを使ってケチな了見を起こす受験生も出てこなくなるのにね… (笑い)

見学者:音声ということになると途端に 「どこを強めるかなんてどうしてそうなことがわかるんですか。それは人によって解釈の違いのではないでしょうか」などという反応がかならずでてきますね。

近江何かどこかで聞いた風な口調できいてくる人がでてくる、いやになりますね。

たしかに、「百人役者がいれば百通りのハムレットがいる」のは事実ですが、はっきり言えることはたくさんあります。こうでなればいけないということはあるのは当然です。「この文章の正しい意味はなにか」と先生に聞かれて反論してくることはしません。

見学者: たしかにそうですね。そういう反応が出たときに先生ならどうしますか?

近江テキストを通して話者とゆっくりと向き合いなさいとつっぱねます。この世代の最も苦手なところだからです。よく読みもしないで勝手な書き込みをするのと同じことです。読め!といえばいいのです。そこで感じたことをゆっくりと共同吟味していけばいいのです。
*ちなみに論理的なつながりを確認するためのもうひとつの方法には、わかって声に出したところのものは、自分の表現として取り込まれ始めていますから、本文中の英文をつかってのダイレクトな英語の反応を当該箇所の音読につなげていくことができる。 (教師「あのね、第1段落の結びがhistory is accessible only through these documents and diaries といっていたね?; Right? But among the indispensable resources, what you would like to call everyone’s attention to is…what kinds?」生徒:”…contemporary accounts of past events written by witnesses教師「いわば,目撃者談だね?」)

近江 そしてそれらの「目撃談」はあてにするなということなのか、逆なの?
生徒それがなければ歴史家としてたどり着きにくいことが多くあるといっています。
近江:そう。ということはhistory as a distilled newspaper は、皮肉ではなく賞賛だ。レトリカルチャートの方法で、この段落を視覚化させてみると下のようになるだろうか。ゴチックの部分が話者の目撃談に対する積極的な姿勢がでている。語調やテンポに自然に反映してくるだろう。

(+)Among the indispensable resources of the historian are contemporary accounts of past events written by witnesses.
(-)Of course these accounts have to be approached with skepticism, the historian must remember the human inclination to dramatize, enlarge a share or minimize responsibility, write with bias, distort the fact whether deliberately or unconsciously, ‘ spin’ the events or tell outright lies.
(+)Even so, first-hand reports are valuable and important. Without diaries and reports, memoirs, newspapers and other contemporary records, historians would have a very hard if not possible time. This was what Thomas Carlyle had in mind when he defined history as ‘a kind of distilled newspaper, ‘
though of course he thereby ignores the task of checking and interpretation that the historian uses to turn those records into an organized whole. Moreover a great deal of the raw material used by historians consists of other less interesting factual records, such as lists of names, account books, legal documents, and the like; a far cry from, say, diary entries and personal letters, reportage and memoir.
第3段落~〈省略、各自取り組んでください〉
各自で残りを取り組んでみてください。ただ2つ考えるポイントをあげますと、この話者が逆接を繰り返して話を展開しているという点をどう考えるかです。つまり論の流れは以下の様に+、-側と交互しているということに気が付くということ彼の目的(解釈のポイント4にどう貢献しているかっということです。
(+)It is these latter accounts, though, that give the freshest… 
() though, of course…
(+)Nevertheless  
()If as you recall
(+)but the same applies to…
(-)Some letters…
(+)but it is…(-)
これと関係したことは、第2段落のwitnesses 同様に ”close to the described events…でどの語を強めるかということです。私は、このcloseに 正しく強勢をおけるかどうかで、今回の入試問題として日本語訳を書かせるのと同等の、あるいはそれ以上の解釈の程度を推し量ることができると思います。なぜか考えてください。
さて、日本にはレトリック批評、スピーチ批評という、話者の目的に照らし合わせてその構成や表現を総合的に批判鑑賞する基礎訓練もなされていません。そのレトリックの観点からは、当該の文を改めてみますとですが、話者は学者とぼしき人のように思えます。その話者が、thoughneverthelessという等位接続詞では語をつかっていはいるもののやや煩瑣に逆接がでてくる印象です。しかし学術論文でなくセミフォーマルなトークとしては軽妙な響きが感じ取れます。
上のような過程を通って素材全体の組み立てを理解してください。特に、+側に話者の言いたい点が集約されているところ、その他、もろもろ…高低、強弱、遅速を工夫して話者になりかわって+側が浮き立つように語り聞かせるように読みを工夫していき、展開法の中で様々な表現を刷り込んでいってください。
さて、こう私が申しあげてみても、上のような執拗な問答を想像したり、このブログでの字並びをみているだけでも、およそスピーキングやコミュニケーションとは関係がないと感じるのではないでしょうか? 
でも、よく見てください。従来の受験英語で議論されている、文法とか日本語訳というものは観点が違っているはずです。文法的な構造に対する理解も大切です。ただ、これまでにこのブログで紹介してきて、今後も別な素材に対してしていくつもりの言葉の捉え方――話者の目的に彼が選択した論理的な構造と感化的構造(話者の心の流れ)はどのように貢献しているかを批判鑑賞法に精読していくことーは多くの英語学習者は習ってきていません。その捉え方がオーラル・インタ-リテーションであり、そういう意識が集約したところにある音読が繰り返されることで、入試問題の英文という素材すら、いやそういうものが本来の語りとしての姿として蘇り、皆さんが英語で国際舞台で議論したり、発表したりする英語の表現のファイルとして蓄積されていくのです。もっと言えば、これが英会話になっていくのだということです!!

2011年6月 9日 (木)

第4回 “スピーチ/レシテーションにおけるジェスチャをどうするか”?あまりにも低次元な問題から、非言語コミュニケーションと語る身体性に意識転換せよ

近江 前回、中一のリーダーの英文としてKoji is cooking in the kitchen…に始まる文章を取りあげましたが、それからあとにあることが起こりました。これも同じ「病根」にかかわること思うので今回はその話をさせていただきたいと思います。

先月SELHi指定校であった某県立高校の英語科の先生たちに招かれて話をしてきました。そこで「スピーチコンテストなどで、よくジェスチャを入れよ言われるが、とってつけたようなジェスチャなどさせないほうがいいと自分は思うがどうか」ということでした。私は、その通りであると答えながら、同時にコンテストなどの総評で相変わらず低レベルな御託宣を垂れて現場を混乱させている審査員がいるのだなと軽い絶望感を覚えました。

前回同様、語り手と立ち位置が理解されていません。手話でないのなら、語句をいちいち身体表現化するなどは愚かなことです。もちろん話者が、手話(しゅわ)通訳士という想定なら、バンバンやってちょうだいということです()。“島のあんこの黒髪を~”とかいいながら小首をかしげ右手をそっと髪に寄せて…どんどんやってかまわないでしょう。

: 島倉千代子のDVDでも見てですか(笑)

近江: だいたい語句の意味を身体表現化するといっても、コミュニケーション学が依って立つところの言語パロール観は、意味は語句の中に決定済のものとして内在すると考える言語ラング観とは異なり、使用者(=話者)がそれらに意味や機能を与えている、文章の話者が、語句をどういうつもりで使っているかということに重点が置かれます。従って上記の手話モドキの仕草は、手話でない限りはおかしなことになるのはあたりまえです。物語の朗読も同様です。語り手は話の中にでてくる登場人物ではありません。仮に自分の話をしている場面だとしても、現在は話の中にいる自分とは異なる次元にいるはずです。ですからそのジェスチャを真似て、つうになって「よひょうよ、お前はあたしの機を織っているところを見たな!」と形相すさまじく迫ったのでは、聞いている側はたまりません。   
Q: 
もっとも、怪談などで、わざ作中の人物が話者に憑依したかのように話し、それが見ている方の恐怖感をあおるということはありますよね。
近江: 白石加代子がそうですね。意図的に視点を混同させるわけです。もちろん実況中継的な視点で、話しているときにクマがでてきているのならよじ登るなり水に飛び込むなりすればいいはずです。なぜならそれがその場合のスピーカーの「ジェスチャア」だからですしかしここにはそれはあてはまりません。このへんが混同されているということは、ま・こ・と・に・クマった話です。

講演では先日亡くなった元キャンディーズの田中好子氏の別れのスピーチの例も出しました。あのときの彼女に向かって、どんなジェスチャを入れよというのでしょうか。あの場合、病床に半身を起して、最後の力をふりしぼって話しているあの映像でもわかるように、あれがあの時の田中さんのこの上ない雄弁な「ジェスチャア」だったわけです。「人はコミュニケーションを止めることはできない」(One cannot not communicate)。ワズラウィックという学者はいいました。わざわざ入れなくとも人の身体は間断なく何かのメッセージを発しているということです。なるほど動きを意識的に磨くということはあります。踊りもフィギャアスケートもそうです。でも、「真央ちゃん動きを入れましょう」とはいいません。静止状態も含めてすべてが「語る身体」だからです。
それともうひとつ大切なことは、
身体とか音声というものは、スピーカーが外から付け加えるものではなく、テクストに内在しているものであるということです。例の「ヴァージニアの手紙」(Virginia’s Letter)におけるNew York Sunの紙の返事は、ヴァージニアだけに語っているのではなく、世間一般に向けている箇所もある、つまり異質の空間が同一の文章テクストに同居していると解釈し、目線が遠近と移動させていくとしたら、これなどは作品の内部に突き動かされた連続して語る身体非言語表現といえないことはありません。現場も、いわゆる狭い意味のスピーチ学習をどう指導するかなどというマニュアル的な関心を寄せるのではなく、普段扱われているリーダーの文章、受験参考書の長文でも、その中にどういう身体性が組み込まれているかということを考えることが読解学習であるような指導を普段から展開することが、長期的には英語力をアップしてことに貢献することは間違いないことです。

背後に身体性に対する意識の欠落していた旧帝大のアカデミズムを頂点とする長い、長い日本の英学の歴史があるから一朝一夕にはどうにもならないかもしれませんが、日本の英語教育にスピーチコミュニケーション学の特にオーラルインタープリテーション(作品音声解釈表現法)を導入されていくことです。

2011年5月 3日 (火)

第3回 受験参考書の長文から、すべての英文は生きた語り(Parole)--  文章に組み込まれているコミュニケーション「7つのポイント」 の捉え方が解釈であり、それに従って音読すれば英語力は変わる!

Q:上の素材は物語でしたが、他のものはどうですか。

近江:そこなんです! 詩、小説、エッセー、手紙文、受験参考書の長文であろうと 同じことです。その背後に人がいる生きた語り(parole)であるという観点で素材の英文を精読することには変わりありません。文章は語り手のコミュニケーション行為の産物です。人間や組織や社会の行動を考える場合の「7つのポイント」というものを考えるのは物語であろうと評論文であろうと同じです。20世紀の文芸評論家ケネスバークという巨人が人間社会を分析解明するためにも生かされていた概念で西洋のレトリックの伝統の根幹にある概念です。解釈という観点で私がまとめ直すとこうなります。

①誰が(WHO)=語り手、

②誰に向けて (TO WHOM)=聞き手。

③いつ(WHNE)=時、

④どこから〈WHERE 〉=場所

(①~④=語り手の立ち位置)。

⑤ 何を「する」ために(WHY)=目的、魂胆“(情報伝達か、説得か、余興歓待か、弁明か、祈り等々)。

⑥もともとはどういう意味を持った語句、段落、エピソード、登場人物のスピーチに (WHAT=denonative meaning) 明示的な意味・内容

⑦= 1 どういう展開と配列と、

⑦=2 どういう非言語を連動させることで〈HOW〉= 形式

    どういう機能と最終的な意味(WHAT-connotative meaning)を与えているか-=機能と最終的な暗示的意味

捉え方が解釈であり、それに従って音読すれば第一回目で述べたように英語力は変わっていきます。もう、これはしてみるより他はありません。

初歩が勝負――中学教材New Horizonより。共通の問題点と指導法

Q: 中学生あたりの素材ではさすがにむつかしいでしょうね。

近江:違います。初歩であればあるほど、この考え方は大切です。この辺にボタンを掛け違いがあるから日本人の英語はなかなかよくならないのです。

まず現実は問題だらけの素材を提供しているという点があります。同時に処理の仕方がわかっていないという点が一方にあります。しかし、これは同罪で、根源にあるのはコミュニケーションに対する理解の欠如です。

 New Horizon1(東京書籍)のUnit9の「クリスマスがやってきた」の英文をご覧ください。

 

ある家庭の内外での挿絵が6コマあります。そこに英文が添えられています。(絵省略)

Koji is cooking in the kitchen. Lisa is helping him. Mike and Shin are reading Christmas cards. Emi and Judy and Bill are watching TV.  

Koro is running around in the snow.

どう思いますか?ちょっと音読してみていたけませんか?

Q: ( 読みはじめる )

近江:おっと待った!よく声に出せますね!!

Q: あっ!びっくりした

近江:…ということになります!(笑)

  この英文ですが、私のようにアメリカで演劇・スピーチを学んだ者にとってはこういう不可思議な英文を音読することは、苦痛以外の何物でもありません。というより不可能です。

近江:ところがはっきりいって、今、生徒ばかりではない先生までもが、CDのネイティブの声をマネするだけで何の痛痒も感じていないではないでしょうか。

まず、誰が、あるいはそもそも何人がしゃべっているかが不明です。一人だとします。しかし、その人は台所と居間が同時に見える地点に立っていなくてはなりません。しかし、どこに立っているのか、浮いているのかわかりません。ましてや外で転げまわっているコロが見えるのはほとんど霊的な存在でしかありません。

Q: そういわれてみればそうですね…

近江:いや、それでもいいのです。霊的な存在だと解釈(interpret)すればそれでいいのです。そのかわり、そうした声を模さなければなりません。

Q: (まさかっという顔をして笑う)

近江: いや、冗談でなくそうしなくてはいけません。日本の英語教育者はこういうときにいい意味の遊び心がないことが上達を妨げていることを指摘しておきたいと思います。

Q: いい意味の演劇の心ですね。霊もいいですが、これは、ビデオレターの語り手と考えることはできませんか。

近江:ビデオレター…なるほどね…。ということは空間の中で捉えると、それに類似した場面はないかな…。

Q: カメラを回している者がファインダーを覗きながらでもいいのじゃあないかと思います。

近江: 室内が込まなく見えて、同時に外のコロが見えるためには、話者はカメラをもって動いているわけですね。あるいは水族館で、のぞき窓から、見ているという場面も似ているかもしれません。

しかし、仮にそうだとしても浩二が台所で料理をしているということなどを誰にむかって語っているか?「連れ」だったら、その連れもその景色は恐らくは見ているはずだ。ではなぜいちいちKoro is running around…などというのだろうか。それとも本人の目が不自由だから?なるほど、教えてやっているのか、つまり情報伝達目的か、いずれにせよ、それにふさわしい調子で語ってもらう…。

Q:ふさわしい調子ってどんなでしょうか。

近江: わかりません。それがポイントではないのです。こんな風ではなかろうかなと考えることが重要なのです。ようは学習者が声を出すときに頭の中に何が起こっているかが入力の深さを決めるからこういうことをいうのです。

Q: 書き言葉だからそんな目くじら立てなくていいといわれそうですね…

いや、絶対そう弁明してきますよ…

近江: だろうね。もともと 〝I“という存在が稀薄で、「私」という主語も、その意識も希薄なまま、ぞろぞろと文を書き始める日本人です。語っている時の自分がどういう空間で話し、その時の立ち位置がどうでということが弱いという〝伝統”がこんなところでも暴露されてしまうのです。

しかし、そもそも書き言葉って何よということです。人間のセリフであることにかわりはないはずです。書いている人間の語りであり、語っている空間の中における立ち位置がないことはないのです。

教育素材の中にはこういう観点は一切考慮に入れられていないで書かれたものが沢山ありますが、それは教科書の執筆者たちの言語観と関連してくるから根が深いのです。

なぜこんな面倒なことを考えることが必要なのか。それは、まずああでもない、こうでもないと声を出し体を使っていく過程で、弁証法的に解釈を深めていくことができるということと、最も大切なことはしっかり納得して声だしをすることで、初めてまとまりある文章のレトリックを線として体に取り込むことができるからです。そしてそれが使えるようになるからです。大学入試の長文などにもあてはまるなのですよ!その点を再度強調しておきたい。

Q:だからなのですね…先生のクラスを見学したときに、あのレベルの英語を連続的に使ってハイレベルの英会話を使ったりしていましたね…。驚きました。

2011年5月 2日 (月)

第2回 登場人物の会話を含む物語素材―「鶴の恩返し」(The Grateful Crane) を例にとって。人物ではない、語り手の聞き手へのせりふの構造に注意せよ!

近江:「鶴の恩返し」の次の一節をとってみましょう。

 

…noticing the young man looking in surprise, the crane said, You’ve broken our promise, even though I urged you not to look inside. I am the crane you rescued me from the trap. I wanted to repay my gratitude, but now that you know my true nature, I cannot remain here.”

With these words, she turned and walked out of the house. Yohyo rushed out the house and cried,“ I ‘ve betrayed your trust. I do apologize. Please forgive me. Please, Tsu, stay by me.”

“I can’t” So saying she kissed him tenderly on the cheek 

With a mighty flap of her wings, she took off into the sky, leaving behind only the cloth that it had just finished

Tsu circled once again over the evening sky, gave a single cry as if to say “goodbye,” and flew offOne could only hear the Yohyo’s voice “Tsu!!”

  Japanese folklore)

近江:まあ、典型的な物語形式の素材です。特に中に登場人物のやりとりがたっぷりあるという形式。日本人が好きなタイプです。これに対して、多くの熱心な英語教師はよくこういいます。「山本く~ん。もっとヨヒョウの気持ちになって、ツー!といいなさい」―。

Q: まったく。そして山本君のほうも、指示されたようにその人物になりきろうとするわけですね。仕草まで人物を忠実に再現しようとしてー。

近江:しかし、教育のこんなささやかなる活動にも、〈人物になりきるのがいいことだ〉とでも言わんばかりの誤った刷り込みをしているのです。このボタンの掛け違いをして、音読やレシテーション指導を続けていくことは1)ことばの習得のためにかなり遠回りしていることになるばかりか、2)社会人とし

ての健全な発達に貢献できる訓練の機会を逃しているのです。

Q:話が大きくなりましたね。

近江:つうとよひょうが最終的に別れたのか、よりを戻したのかといういわば、オハナシだけに注意を払うのは、ミーちゃん,ハーちゃんです。コトバとして文章を味わっているとはいえません。

コトバとして味わうということは、まず1)語り手ありきです。その語り手が、2)どういう相手に向かって、4)何のために話しているのか、そのコミュニケーション目的を達成させるために、2)どういう時と、3)場所を選んでいるかを見極めようとします。そして彼が、5)どういう内容を選択し、7)どういう展開を選び、語句を選択し、それらの語句や段落やあるいは全体の話にどういう機能と意味を与えているか―いってみればそれが意味で、それらを行間から見極めようとするのです。

Q: 通常の英語のリーディングでは、いきなり単語や文章の意味はどうかと、ダイレクトに掴み取ろうとしますね。学習者は学習者で、意味は辞書の中にあると思っている。

近江: 単語や文章の中にある意味は、いってみれば料理人が味を付ける前の、素材がもともから持っている意味です。最終的なものではありません。最も大切なのは、語り手が目的達成のために、どういう味付けをしているか、それこそがここで求める意味です。そしてこの意味をどう捉えるかがいわゆるオーラルインタープリテーション(=音声解釈表現)であり、読みの種類として捉えるのならそれは批判的味読(Critical and Appreciative Reading,あるいはコミュニケーション的精読です。さらにいうのならば、その解釈の程度によりそれにより声の調子になるかが異なってきます。

Q: 日本の英語教室では日本語にどうするかということで生徒も先生も汲々としますね?

近江:しかし、それと同じレベル、あるいはそれ以上に音読表現と解釈は等価だということです。

近江:だから「どう音読する?」ト生徒にきくことは「どういう風に解釈した?」ときくのと同じことになるわけです。7つのポイントはパフォーマンスをするためのポイントなどいうものではありません。すべて作品の中に組み込まれているもの、作品に内包するものなのです。

Q: そこで、話をもとに戻して、「なりきりながら、同時に外から」という点とどうつながってくるのでしょうか?

近江:それは作品に内包する7つのポイントに対して、あなたという学習者の立ち位置はどこかということとかかわってきます。

 新幹線の走りを理解するとしましょう。なりきるということはいってみれば「同化」することですね。新幹線に乗り込んで味わってみる感覚です。いうまでもなくこれは乗ってみることで味わうことができます。乗客目線(登場人物や情景描写)で新幹線を捉えています。

Q: つまりは、ヨヒョウやツウの気持ちになってみたり、夕焼け空などの情景に思い入れしたりということと同じですね。

近江:はい。ところが、ほとんどの人の、なりきりは乗客レベルで止まってしまいます。つまりメロドラマを見て自分が登場人物になってみたり景色を楽しむで終わり。もちろんそういう楽しみ方もありますが、ことばの学習ということを考えればそれでは不十分です。

Q:のめり込みの危険性というわけですね。ほかに必要なことといいますと…

近江:「運転者」目線です。『鶴の恩返し』でいえばその物語を語っている作家目線です。

でもね、運転手は新幹線に乗っかってしまっています。眼前に展開する光景などの走りの感覚は貴重です。が、やはり当事者としての見えることと見えないことがでてきます。

Q: 運転手になるだけでも不十分といいますと…

近江: 新幹線をある目的をもって走らせているミスターXという存在です。作品の外にいて作品を制御している存在。作家です。新幹線でいえば、運転

者でなくて、『吾輩は猫である』において、話や登場人物と同化する乗客目線があるが、「猫」は運転者目線ですね。作家はその外にいる。猫をも操っている夏目漱石です。

さっき、「同時に外から眺める目線」とは、「河川敷目線」で自分自身ももちろん乗客にも運転手にもなっていって新幹線の走りの感覚を把握した上で、河川敷に立ってみて、近づいて再び走り去ってゆく感覚や、残すノイズの快,不快などの感想を持つことができる目線を文章に対しても生かすことです。日本には伝統のないレトリックという感覚です。佑ちゃん、あなたがあなたであれば野球はどうでもいいという単なる追っかけファンとなっては困るのです。レシテーションや音読で教育効果を挙げたいと思っている人はこの意識を持つことが大切です。

Q:先ほど、社会人としての健全なる発達に貢献するのしないのということを言われましたがどういうことですか?

近江:たとえば大震災という現象を正確に捉えようとすることは、「被災者の気持ちになってウフ~ン…」となってしまうことだけで終わってしまわない人間作りにどこまで貢献できるかということです。日本人は、戦時中と何ら変わらない情緒的な体質を持っていますが、そのほかにもありますが、こういった面にも指導の仕方では貢献できると私はみています。

Q:そこまで英語のレシテーション指導に先生はみているのですか。

近江:表面的なレシテーションではなくて、オーラルインタープリテーションだったならばそれは可能なのです。ところが現実は、たとえば日本では少数派のコミュニケーション研究者という大学の研究者たちですら、コミュニケーション学の母体である基本的なスピーチ訓練などを受けてないのに異文化コミュニケーションだ、組織コミュニケ―ションなどとアメリカの真似ばかりしていて理屈ばかりこねています。ところが自分の本業ではないとか言い訳をしながら英語を教えているということです。これは不勉強も甚だしいというか、ほとんど不誠実なことだと思います。

まずはオーラルインタープリテーションを今からでも学ぶべきです。そうすれば自分の目下の研究テーマである社会や人間関係に対する目が理屈でなく感覚的にわかるようになってくるからです。

人物になりきる危険性は、どうしても、物語が見えにくくなってしまいがちだからです。ということはその素材全体の良さ、プロポーションとかリズムとか、表現に関する妙味が見えにくくなってしまうということです。

Q:ということは、『鶴の恩返し』だったら、その話を語っている語り手のトークという肝心なことに注意が向きにくくなるということですね。

近江:見合いの席に出かけていったら、クレオパトラ、小野小町と楊貴妃がいたのだが、自分は整形外科の医者のためにホクロしか見てこなかったので彼女たちの顔立ちだとかプロポーションとか雰囲気だとかいっさい覚えていなかったというようなものです(笑)。

Q:どう考えればいいのでしょうか。

近江:連載第一回目の話の続きです。朗読者/学習者であるあなたの立ち位置はどこにあるかということです。それは作家目線、劇作家目線に立つことなのです。つうやよひょうの物語を語っている人にならなくてはなりません。話全体が、この語り手の、聞き手に向けてのセリフなのだというふうに意識させることです。そして、語りとしての話の運びや言葉遣いに注意して、それを声だししていくことです。

Q: 具体的にどういう風に持っていくか教えてください。

近江:文章を熟読して、登場人物の数だけの線を余白に書きます。そして感情の変遷を書き込むなどして完成させます。しかし、これはメインではありません。それらを統合して、もっとも重要な語り手の線、作品そのものの線を完成させていきます。

Q: 登場人物の線とは別にというわけですか。

近江:別とはいいたくありませんね。

Q:ということは?

近江:登場人物の気持ちの流れはそれなりに把握することは必要なのですが、語り手はそれらの人物のせりふにどんな機能を与えようとしているかという観点で読んでいくことが重要です。

Q:それが語り手の線を全うすることであるし、その作品をことばとしてしっかり把握したということになるわけですね。

近江:そうです。そして、そういう理解を伴っての音読であってこそ、文章の表現がかたまりごと身体に取り込まれていくし…

Q:それが自分自身のコミュニケーションに応用されてもいくということになるのですね。

近江:そうです。ですからよひょうやつうという登場人物本人にも気がついていないどういう意味や機能を語り手が与えているかという視点で分析していくのです。

Q:(分析後、全体を音読する。"Tsu"も悲しげに…。)

近江:よひょうの気持ちとしてはそれでもいいかもしれない。ところが、語り手の意図とすると、それまでの抑えを爆発させ、作品全体のカタルシス効果を生じさせしめるほとの機能を“Tsuという一語に託したかったかもしれない。だから、それまでの夫婦の会話そのものまで、実際の当人たちのやりとり以上にアップビートでもっていって、それに備えた方がいいなどと考えて語っていたかもしれないーーいずれにせよ登場人物たちはあずかり知らぬ意図が働いているかもしれないと考えるのです。いや、もちろん厳密にいえば、そんなことは朗読者・解釈者にはわからない。当たり前の話です。色々な解釈があるのはあたりまえです。でも最終的には「私はTsu!と突出させよう」という解釈に到達したのなら、そのように言ってみることがここで要求されていることなのです。

 

Q: しかし、こうしてうかがっていきますと、文章理解とは別口にデリバリー

とか音読の仕方などというものはなさそうですね。

近江:その通りです。解釈と表現は一体になっているわけす。典型的なことをひ    とつだけいっておきましょう。演劇のオンフォーカスに対する、オフ・フォーカスという目線です。

 つうが、You have broken our promise, even though I urged you not to look inside. I am the crane…”の箇所を言っているときに、つうは観客空間のある一点につうがいるかのように語りかけます。いっぽうよひょうの betrayed your trust. I do apologize…”は、つうは通常反対側のやはり観客空間の一点にいるかのように語りかけます。この独特の目線は、語り手の聞き手に対するコミュニケーションであるということを示唆する今までの考え方を象徴する典型的な目線ですね。

2011年3月18日 (金)

第1回 第一にレシテーション、第二にレシテーション、第三にスピーチ

Q:レシテーションは女生徒には人気がありますが、男の生徒にはどうもありません。

近江:

どうもそんなようですね。長い間、チューデントタイムズ(現・「週間ST)の「テープによるレシテーションコンテスト」の審査をしていた時からそう感じていました。応募者の数が圧倒的に違うのです。

Q:男性はやはり自分の言葉で、自分自身の内容を語りたがるようですね。

近江:

だから伸びないのです!

Q:キツッイ!
近江:

…真実は耳に痛いものです。誤解しないでください。誰でも最終的には自分の言葉で、自分のいいたいことを表現で出来るようになりたい…これはあたりまえですよ。しかし、だからといって「自分の意見を自分のことばで」という口当たりのいいスローガンで自由作文ばかりさせたり、 “Don’t be afraid of making mistakes!”とか

言って、外国人との軽いおしゃべりだけをしていれば自然に話せるようになのじゃあなるものではないということにそろそろ気が付かないと未来永劫に日本人は外国語べたの汚名を返上はできません

下手な英語を百時間しゃべったって、しょせんは下手のままというわけですね。
近江:

それを悪達といいます。

Q:言論の自由だから口封じをすることはできませんが、自分ではその方法で身をつけたこともない素人が、プロをさておいてさももっともらしいことをいうこの風潮は教育や文化の発展を阻害しますね。素人旋風が列島を吹き荒れ、プロの意見など消し飛んでしまいますね。
近江:

もっとも近年は、そのプロが少々怪しいのですがねー。素人はだしのプロもいますから何をかいわんやですがね…。

しゃべれ、しゃべれというのはどうも外国人教師にそういうことを言う傾向があるようです。自分が日本女性と結婚していて寝食、日本語で暮らして何十年たってもいつまでたっても酔ったような外人日本語なのか考えてみれば、なんとなく聞いて、なんとなくしゃべるのでは効果がないということを理解しなくてはいけません。また、日本人の方--とくに女性!――青い目にそういわれてうっとりするのでなく、そういう点はビシリと指摘してやらないといけません。


だいたい自分の言葉なのというものは誰でも初めからあるわけではありません。色々な優れた文章、美しい詩やスピーチを含めて、よく観察しそれらの言い回しや展開、リズムなど雄弁のカラクリを凝視し、徹底的音読を通して体に線で刷り込ませていく、もうそれしかありません。最小単位がすでにカタマリであるところがミソです。そしてこれらのカタマリに対しては時々、色々な場面使っているシミュレーションを施しておく。そのうち実際のコミュニケーションの場面で息の長い話ができたり、書いたりできるようになるのです。

TS.エリオットという作家はこういう趣旨のことをいっていました。

創造とはすべて先人からの剽窃であるとー。
また巨匠黒沢明は、飯を食わねばクソは出ないとまでいっていました()

Q:そういうと、それはある程度できるようになった人もいうことで、初心者には無理だという反論が必ずでてくるのではないですか?
近江:

関係ありません。そういう感覚がプロであるはずのエライ学者先生の心の中に結構あるから、中学の一年、二年あたりのリーダーが、ポツポツとした素材から脱却できないのです。数行でもいい、カタマリ、カタマリを与えるのを基本とするのです。センテンスもカタマリの中で教え、最後はカタマリを食べさせてしまうという方向にいくべきです。正しく指導すればそれはむつかしいことではありません。

Q:そこで音読、レシテーションをどんどんせよということになるわけですね。

近江:

はい。しかし本当に教育効果をあげるならばただ音読や、近年話題になっているシャドウィングだけでは弱く、オーラルインタープリテーションでなくてはならない、そこで英語教師養成の段階からオーラルインタープリテーション(Oral Interpretation of Literature)を必修とすべきです。教育愛と情熱だけではどうにもならない訓練の世界があるのです。混迷を続ける日本の英語教育、いや言葉の教育への大きな福音なのです。東京外語大の小川芳雄先生と話した時です。「英会話をやることが大切じゃあないんだよね?日本の英語教育を救う道だ!」

Q:オーラルインタープリテーション=なりきりメソッドですか?近江メソッドは、NHKの「当世キーワード」なのでも紹介されましたね。「なりきる」ということだそうですね。
近江:そういわれてしまっています。

Q:そうではないのですか。
近江:
違います。

Q:エッ違う?先生ご自身が、あるCBCの番組(動画⇒)の中で「なりきる」ことの大切さを述べておられますよ。
近江:
いや、ハッハッ!見ていましたか。確かにいっていますね。ただ、その部分が一人歩きしてしまっているのですメディアはキャッチフレーズが欲しいんです。それでないと売れませんからね。まあ、確かにボソボソ音読することから比べれば、なり切れることは進歩ではあります。しかしなりきる「だけ」ではことばの力はつきません。Love is blind… あるいは「親ばか」に通じるものだからです(笑)

Q:なりきるから見えることもあることも確かですが、だから見えなくなってしまうこともあるということですね。
近江:
そういうことです。

Q:ではどういう気持ちで臨むべきでしょうか。
近江:
なりきりと同時に、自分を外から眺める、どのような巧みな表現法のくだりを自分はしゃべっているのだという自覚があっほう学習効果をあがるということです。いってみれば「同化」と「異化」を交互に、あるいは同時に行うことが大切なのです。

Q:なるほど!そのあたりのところを、色々な英語素材で教えてください。(続く)