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2011年6月13日 (月)

第5回 2011年度の京都大学入試問題の英文を使って

日本人が、真に内容のあることを、息の長い表現で、しかも文字にしてもおかしくない英語で国際舞台においてコミュニケ―トできるレベルにどこまで近づいていけるか―これは永遠の課題でしょう。しかし、そのために言語面で真っ先にしなければならないことーそれは受験英語とコミュニケーション英語(=それも英会話)の2種類があるかのような錯覚から目覚めることです。
さてブログでは、物語、小説の抜粋を例にとってその料理法について述べてきました。今回は、皆さんが莫大な時間と労力を費やしている、「長文」の類です。
ああいうものとて、あのようにしゃべって構わないということです。それどころか外国人相手に英語で議論したり、自説を滔々と展開できるようになりたいのだったら、トイレはどこですか、あそこですという紋切型英会話ごっこではどうにもならないということです。
 
(
以下、高校生を使っての授業形態で、授業を展開します)


近江:
さあ、全文をじっくり七つのポイントを意識しながら黙読して…。
The word ‘history’ has two senses: what happened in the past and what we say in the present about what happened in the past . In the first sense history as past events is imagined as a country stretched out ‘behind’ us which we could visit if only we had a time-travel machine. History as the surprises, interpretations and narratives constructed today is based on what those events left for us—in the form of documents, libraries, ruins unearthed by the archeologist, artefacts known or judged to be old. History, in the sense of past time, is accessible only through history in the sense of today’s incomplete jigsaw puzzle; we can get it in no other way.
Among the indispensable resources of the historian are contemporary accounts of past events written by witnesses. Of course these accounts have to be approached with skepticism, the historian must remember the human inclination to dramatize, enlarge a share or minimize responsibility, write with bias, distort the fact whether deliberately or unconsciously, ‘ spin’ the events or tell outright lies. Even so, first-hand reports are valuable and important. Without diaries and reports, memoirs, newspapers and other contemporary records, historians would have a very hard if not possible time. This was what Thomas Carlyle had in mind when he denfined history as ‘a kind of distilled newspaper, ‘ though of course he thereby ignores the task of checking and interpretation that the historian uses to turn those records into an organized whole.
Moreover a great deal of the raw material used by historians consists of other less interesting factual records, such as lists of names, account books, legal documents, and the like; a far cry from, say, diary entries and personal letters, reportage and memoir.
t is these latter accounts, though, that give the freshest and vivid impression of the past, however much spin and bias they contain. The documentary raw material of history has the immediacy of presence, the directness that characterizes communication from someone who was there and felt and saw the things reported.  Any policeman will tell you that four witnesses at the scene of an accident will give four different stories of what happened: so we must accept that every contemporary account is one person’s account, filtered through subjectivity and the often unreliable channel of memory. Nevertheless is impossible not to be gripped, absorbed and often
moved by letters, diaries and court records. It is q quite different experience from reading novelist versions of the events, and even historical accounts of them. The consciousness that the writer was there makes a difference, as you read, you recall the cynical view of Santayana that 'history is a pack of lies about events that never happened, you might not be able to resist a smile. He meant today’s historians writing about the past; but the same applies to the creators of their resources. Some letters and diaries might indeed be a pack of lies, and their authors might not really have been where they claimed to have been—but it is reasonable to suppose that most are the author’s’ versions of the truth. And the fact that they were written close to the described events makes them compelling.

第一段落~

近江:…わかったかな。では理解したように音読しはじめてみて。
生徒The word ‘history’ has two senses: what happened in the past and what we say in the present about what happened in the past …

近江:
ちょっと待った!君の言い方だと ‘history’の〝two senses“が僕には伝わってこないのだがなぁ!ひとつは…?
生徒 what happened in the past…。
近江 間違いなく現実として存在していた過去としてのhistory…だね。それともうひとつは?

生徒what we say in the PRESENT

近江:about what?

生徒:(about what happened in the past…と力をいれずにいう。)

近江:それでいいんだよ!力むことはなかったんだよ。最初の方の定義の部分だから。And what we SAY で少し強め、in the PRESENTでさらに強める。抑揚(高低模様)でいえば基本的に2の高さで入り、PRESENT3の高さにいくところ。about 以下は1で流す。

生徒なるほど。

近江:はい、それでは一緒にいってみよう。The word ‘history’ has two senses: what happened in the past and what we say in the present about what happened in the past

見学者:あの、2-3-1のイントネーションというのはどんな文にあらわれるのですか、
近江そう考えてしまう人が多いのです。この抑揚に限らず、音声の形というのは特定の語形につくものではありません。スピーチ音声は話者の心の波動であって、それがある特定の文型に現れることが多いというものの、基本的にはセンテンスを乗り越えてもっと大きな段落に大きな波動として浮かび上がることが多いのです。2-3-1の心の波動とは、あることを強調しようと助走していって強めて、あと波が引くように引いていくという最も一般的な自然かつ典型的な波動ですが、それはどういうところに現れるかは一概にはいえません。
いずれにせよ、一握りのルール化けしてマスターしてしまえばそれでよしという了見を持たせないことです。今は今で、今のところでしっかり修正した解釈で読ませていけばいいと指導してください。(生徒に、さらに先に行かせる)

生徒…In the first sense history as past events is imagined as a country stretched out ‘behind’ us(望ましくない息継ぎ)which we could visit(望ましくない息継ぎif only we had a time-travel machine. History as the surprises, interpretations and narratives constructed today is based on what those events left for us—in the form of documents, libraries, ruins unearthed by the archeologist, artefacts known or judged to be old. History, in the sense of past time, is accessible only through history in the sense of today’s incomplete jigsaw puzzle; we can get it in no other way.

近江:第1義のhistoryを即物的に捉えるといより、もう少し情感として捉えた方がいいと僕は思う。君の細かな息継ぎはその感じを伝えていないよ。手つかずの生の現実、だれもが届きえない謎を秘めた素材としてのhistory—そういう悠久の彼方を掴み取る音調というものを考えたい。 肺に息を十分ためた軽い朗詠調か、たゆとうがごとく(と言って手本を聞かせる) 息継ぎなどしないで、楽に…which we could visit if only we had a time-travel machine.と流したいところだね。
近江 英語を一定レベル以上に極めようとしている人たちは、基本的な呼吸法と肺活量を確保していきたいですね。意識していくだけでも違ってくる。僕の場合は、In the first senseの後で、少し補給する。が残りで5000CCある。全部使い切れというのではない。
見学者:肺活量が十分だとすると、この場合はどういう表現が可能ですか?

近江:余裕を持ったフレージングができます。仮に切るとしても音波をゼロにするのでなく種火を残す感じで音量と共鳴を保ちながら語ることができます。

高低、強弱、遅速、間(ま)、すべてのコントロールは腹筋なのです。
(生徒に)ところでさっきの2-3-1はでてきているんだよ。

生徒…ああ、何かそう感じました。

近江In the first senseのあと。2で history as past events is imagined as a country stretched out そのまま3で‘BEHINDを強めると同時に声をあげるその後、 uswhich we could visit if only we had a time-travel machineは1に下げて、同時にさらっと流す。演劇用語でいう”throw away” だ。

 こんな感じになるかな。(といって正しい形を教える)

生徒:きれいですね。ゴッツン、ゴッツンといってしまってはいけないわけですね。

見学者:学校の教師読みですね。

近江範読よみだね。範読になっていないのですがね…。句読点は文法的な区切りを表示するが、別に息継ぎの場所をしめあすものではないのは演劇界の常識です。文字を読むのではなく、話者の心を読むのです。

そこで冒頭のhistoryの2つの意味について述べたトピックセンテンスを受けてのこのサポートの部分だが、2つのhistoryの単なる「詳細」か、それとも何かというところが意識されていない読みだったな。

生徒:詳細といよりむしろ両者の「関係」について語っています。
近江:そうだ、よくわかった!「関係」なのだ。まず最初の意義が、背後に茫々と広がる過去の世界としてのhistory。それに対して今日の資料や記録などから捉えることができるhistoryは、所詮はそれらの基盤の上に乗っかっている、一方過去の実態としてのhistoryも直接たどり着こうとしても、今日残っているところのものの謎解きからしかたどり着くことができない。つまり双方とも、もう一方がなければ成立しえないという関係にある…というが点が強調されている。そう解釈したら、それはどの語句に思いが集約させたいかな?

生徒:だからーーis based on what those events left for us…というところでしょうか。

近江:だろうね!

第2段落~

 Among the indispensable…と生徒が読みかけた。ただ惰性で読んでいる感じである。)

近江たわむれに声をだすまじ…(生徒が一瞬かたまる。それを見ておもむろにいう) ヴィトゲンシュタインというドイツの哲学者風に言えば、「そのことをいうときに君は何を思っていたか…」が大切だ。適切なものを思っていってこそその言語形式は君の血となり肉となっていくのだよ。そうでなければ単なる口パク!

字を読むのではない、意味を読む、いや、より正確には話者の意図を読むのだ。見知らぬ土地に入っていくときに、あらかじめ地形をつかんでいないと運転に力が入らないだろう。

この話者は第1段落で、資料などに残されたものの中で、今度はどこを強調しようとしているだろうか?また、それを表す決定的なある言葉があるが。

生徒:(documents written by witnesses…です。

近江:そうだ、バチンとwitnessesをきめてもらいたいところだ!(生徒はトライする)

僕だったら間を置いて奥座敷に目をやり瞬間止めるね (笑い)

生徒: 近江先生がその言葉を発したと奥座敷を睨みたいという語はどれで、またなぜそうなのか説明しなさい」なんて問題が入試にでたらおもしろいですね (笑い)

近江:「この文章の話者はどの言葉を強調したいと考えられますか、またその理由をどう考えますか」という問題ならば南山短期大学の英語科ではそういう入試問題に出していたよ。東大や京大あたりが出してもらいたいね。こういった傾向の問題をだされていけば、携帯電話などを使ってケチな了見を起こす受験生も出てこなくなるのにね… (笑い)

見学者:音声ということになると途端に 「どこを強めるかなんてどうしてそうなことがわかるんですか。それは人によって解釈の違いのではないでしょうか」などという反応がかならずでてきますね。

近江何かどこかで聞いた風な口調できいてくる人がでてくる、いやになりますね。

たしかに、「百人役者がいれば百通りのハムレットがいる」のは事実ですが、はっきり言えることはたくさんあります。こうでなればいけないということはあるのは当然です。「この文章の正しい意味はなにか」と先生に聞かれて反論してくることはしません。

見学者: たしかにそうですね。そういう反応が出たときに先生ならどうしますか?

近江テキストを通して話者とゆっくりと向き合いなさいとつっぱねます。この世代の最も苦手なところだからです。よく読みもしないで勝手な書き込みをするのと同じことです。読め!といえばいいのです。そこで感じたことをゆっくりと共同吟味していけばいいのです。
*ちなみに論理的なつながりを確認するためのもうひとつの方法には、わかって声に出したところのものは、自分の表現として取り込まれ始めていますから、本文中の英文をつかってのダイレクトな英語の反応を当該箇所の音読につなげていくことができる。 (教師「あのね、第1段落の結びがhistory is accessible only through these documents and diaries といっていたね?; Right? But among the indispensable resources, what you would like to call everyone’s attention to is…what kinds?」生徒:”…contemporary accounts of past events written by witnesses教師「いわば,目撃者談だね?」)

近江 そしてそれらの「目撃談」はあてにするなということなのか、逆なの?
生徒それがなければ歴史家としてたどり着きにくいことが多くあるといっています。
近江:そう。ということはhistory as a distilled newspaper は、皮肉ではなく賞賛だ。レトリカルチャートの方法で、この段落を視覚化させてみると下のようになるだろうか。ゴチックの部分が話者の目撃談に対する積極的な姿勢がでている。語調やテンポに自然に反映してくるだろう。

(+)Among the indispensable resources of the historian are contemporary accounts of past events written by witnesses.
(-)Of course these accounts have to be approached with skepticism, the historian must remember the human inclination to dramatize, enlarge a share or minimize responsibility, write with bias, distort the fact whether deliberately or unconsciously, ‘ spin’ the events or tell outright lies.
(+)Even so, first-hand reports are valuable and important. Without diaries and reports, memoirs, newspapers and other contemporary records, historians would have a very hard if not possible time. This was what Thomas Carlyle had in mind when he defined history as ‘a kind of distilled newspaper, ‘
though of course he thereby ignores the task of checking and interpretation that the historian uses to turn those records into an organized whole. Moreover a great deal of the raw material used by historians consists of other less interesting factual records, such as lists of names, account books, legal documents, and the like; a far cry from, say, diary entries and personal letters, reportage and memoir.
第3段落~〈省略、各自取り組んでください〉
各自で残りを取り組んでみてください。ただ2つ考えるポイントをあげますと、この話者が逆接を繰り返して話を展開しているという点をどう考えるかです。つまり論の流れは以下の様に+、-側と交互しているということに気が付くということ彼の目的(解釈のポイント4にどう貢献しているかっということです。
(+)It is these latter accounts, though, that give the freshest… 
() though, of course…
(+)Nevertheless  
()If as you recall
(+)but the same applies to…
(-)Some letters…
(+)but it is…(-)
これと関係したことは、第2段落のwitnesses 同様に ”close to the described events…でどの語を強めるかということです。私は、このcloseに 正しく強勢をおけるかどうかで、今回の入試問題として日本語訳を書かせるのと同等の、あるいはそれ以上の解釈の程度を推し量ることができると思います。なぜか考えてください。
さて、日本にはレトリック批評、スピーチ批評という、話者の目的に照らし合わせてその構成や表現を総合的に批判鑑賞する基礎訓練もなされていません。そのレトリックの観点からは、当該の文を改めてみますとですが、話者は学者とぼしき人のように思えます。その話者が、thoughneverthelessという等位接続詞では語をつかっていはいるもののやや煩瑣に逆接がでてくる印象です。しかし学術論文でなくセミフォーマルなトークとしては軽妙な響きが感じ取れます。
上のような過程を通って素材全体の組み立てを理解してください。特に、+側に話者の言いたい点が集約されているところ、その他、もろもろ…高低、強弱、遅速を工夫して話者になりかわって+側が浮き立つように語り聞かせるように読みを工夫していき、展開法の中で様々な表現を刷り込んでいってください。
さて、こう私が申しあげてみても、上のような執拗な問答を想像したり、このブログでの字並びをみているだけでも、およそスピーキングやコミュニケーションとは関係がないと感じるのではないでしょうか? 
でも、よく見てください。従来の受験英語で議論されている、文法とか日本語訳というものは観点が違っているはずです。文法的な構造に対する理解も大切です。ただ、これまでにこのブログで紹介してきて、今後も別な素材に対してしていくつもりの言葉の捉え方――話者の目的に彼が選択した論理的な構造と感化的構造(話者の心の流れ)はどのように貢献しているかを批判鑑賞法に精読していくことーは多くの英語学習者は習ってきていません。その捉え方がオーラル・インタ-リテーションであり、そういう意識が集約したところにある音読が繰り返されることで、入試問題の英文という素材すら、いやそういうものが本来の語りとしての姿として蘇り、皆さんが英語で国際舞台で議論したり、発表したりする英語の表現のファイルとして蓄積されていくのです。もっと言えば、これが英会話になっていくのだということです!!

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